弱い/強いイデオロギー──なぜイデオロギーは純化するのか?

 イデオロギーとは、簡単に言えば、価値観を含む無/意識のこと。こう言いのけてしまうと単純で、あいまいな意味づけにも思える人もいるだろう。というのも、イデオロギーとは社会集団が共通して信じる価値体系であって、価値観に基づいて意識や行為を正当化するものだ、これが大雑把ではあるが学者に広く認識されているイデオロギー論だからだ。仮に、あらゆる無/意識を弱いイデオロギー論とするならば、価値体系やそれを成り立たせる社会構造(たとえば、資本主義とその影響)は強いイデオロギー論と整理できる。

 しかし、この強いイデオロギー論には問題がある。強くイデオロギーを捉えることもまたイデオロギーである、という批判だ。要するに、イデオロギー論自体がイデオロギーである。この矛盾をどう強いイデオロギー論を唱える論者が整理するかもこれまで論点であった。

 では、弱いイデオロギーはどうか。「弱い」と聞くと、それこそ「強い」よりも価値が低いと思えるかもしれない。だが、必ずしもそうではない。先ほど、弱いイデオロギーは「あらゆる無/意識」を指すと書いた。そう、弱いからといって範囲が狭いわけではない。むしろ、かなり広い。というか、すべてと言ってしまっている。なので、イデオロギー論自体がイデオロギーである、それは当然だと考えるのが弱いイデオロギー論だ。では、弱いイデオロギー論では正当化をどう捉えるのだろうか。

 弱いイデオロギー論では、正当化そのものも疑う。むしろ、正当化することばや行為のレトリックは、人々が無/意識の一種だと捉える。実際、価値観を根拠づける理由よりも、人々が抱く微細な無/意識のほうがはるかに複雑で広い。このように捉えると、強いイデオロギー論の問題は、イデオロギーを批判する論者が特定のイデオロギーが成立するメカニズムに回収してしまい、微細な無/意識を見逃してしまう点にある。ちょっと考えてもらえれば、人々の価値観はいつもなにか特定の強いイデオロギーに依拠しているわけではないことは想像できるだろう。そこで、重要なのが自ら自身のイデオロギー、つまり無/意識にも自覚的になることだ。これこそが、弱いイデオロギー論で正当化そのものを疑うことになる。

 一方で疑問も残る。人々の無/意識は複雑だし、さまざまな人々が交叉する行為も複雑だ、けれども反復し、共通する価値観もある。そう考えると、弱いイデオロギー論で捉えることと、強いイデオロギー論は矛盾しない。だとすれば、強いイデオロギーに染まらないポイントを読み解き、弱いイデオロギーを考慮しつつ、強いイデオロギーを読み替える方途を考えること、それがより高次のイデオロギー論だろう。少なくとも、ぼくはそう考える。

「どうしてイデオロギーは純化するのか?」という問いは、この視点に立ってより意味を持つ。たとえば、争う者同士がそれぞれ主張する「正義」は、どちらかの「正義」から考える以上、その「正義」が遂行されるまで争いを続けてしまう。日常でも、どこかで見た光景だろう。このように、行為を正当化する価値観はあるし、それがなんらかの過程で純化してしまうことがある。これを取りこぼさないことは、物事をよく考える上で重要な視点であるのは間違いない。

 弱いイデオロギーはどのようにして強いイデオロギーへと転換されてしまうのか。これが「どうしてイデオロギーは純化するのか?」の言い換えだ。人々の微細な無/意識を取りこぼさずに、かといって強いイデオロギーへの信仰に陥らずに、つまりイデオロギーを捨て去らずにイデオロギーを再構築すること。ぼくはそのプロセスや方法に関心がある。なぜなら、それを忘れてしまうとよく生きること、変わりうる可能性から遠ざかってしまうからだ。