子どもの遊び場に刻まれた残酷さ──プレーパーク、戦争、自己責任

「自分の責任で自由に遊ぶ」。赤字で掲げられた看板に大きく白文字で描かれたことばに目がいった。

「公園で遊ぶためには事故は自分の責任という考えが根本です」。

 これはプレーパークと呼ばれる子どもの遊び場に書かれた説明の一部である。NPO法人として有志のボランティアも参加して地域住民との協働で運営されているのがこのプレーパークだ。

 プレーパークには子どもが自由な発想で遊びを楽しめるように、木材など自ら遊ぶための道具づくりの材料や道具が用意されている。子供たちの様子を観察していると、無造作に刃付きの道具を扱う場面も見られた。側から見ると危なっかしい様子に違和感を持たなかったのは、足場が凸凹として整備されていない、その無秩序こそが秩序となっていることと関係しているのだろう。

 子どもたちの自由な遊びを阻害せず、大人の保護は最低限が原則だ。あくまで遊びを通して子どもたちが考え、経験し、学ぶことを重視した環境となっている。

 同様のコンセプトは、山口県に立地する山口情報芸術センター(YMCA)にて、さらに本格的なコロガル公園シリーズとして展開されている。コロガル公園では、子どもだけではなく、ボランティアのプレーリーダー、そして親御さんらも含めて実験的で創造的な遊びの場を提供する。ゆるい「自治」をコンセプトに、模擬的な社会場は国内外のさまざまな地方で企画・運営されてきたものだ。

「自己責任」ということばをぼくが見つけたのがこのYMCAを訪れた際だった。これまで日本社会の自己責任論を研究してきたぼくとしては、思わず目を輝かせずにはいられなかった。ただそれと同時に、この「自己責任」ということばが含む肯定と否定のニュアンスが入り組む厄介さをあらためて思い知らされた機会でもあった。

 確かに他者に甘える他責思考では創造性は生まれないだろう。だが、公に語られる自己責任は、それに適さない私的な個々の人間やその状況をどこか見えなくさせているように思ってきた。この公園の存在自体が、複雑な現実に向き合う方途をどこか問いかけているように思える。

 調べたところ、プレーパークの起源は、デンマークの造園家による廃材の遊び場づくりにある。この公園に影響を受けたイギリス人がロンドンの爆撃地に冒険遊び場をつくり、ヨーロッパ中に広がり、日本にも持ち込まれた。つまり、子どもたちが生き生きと遊ぶ場所には人間の残酷な歴史も刻まれている。こうした複雑さは世界にどう眠っているのか。最近はこの問いを頭の片隅に入れながら、ぼんやり考え事をしている。

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