AIの誠実さがオモロすぎる件。

 三連休いかがお過ごしでしょうか。ぼくは、昨日は博論の書籍化に向けてしっかり読書に励み、今日は企画書を練り直していました。明日は休もうと思っています。

 本を読んで新しい知見からさまざまな刺激を受けています。なにか書きたいなーと思いつつ、まだ記事にしきるほどの理解度ではありません。そこで、書籍化で新たにメインテーマに据えようと考えている「聴す責任」について、生成AIで優秀なClaudeとやりとりしてみました。

 これがまた面白く、思わず笑っちゃうほどだったんで、そのまま雑記にしちゃいました。それでは、以下がそのやりとりです。いや、お前、誠実すぎるだろって感じなんですよ・・・

青山
青山

「聴す責任」というのは、キリスト教文化の罪に対して「赦す」とは異なり、聴くことによってその語りの意味を読み替える能動的な姿勢だと考えています。これは文化人類学が「文化を書く批判(Writing Culture Shock)」と呼ばれてきた、他者が「民族」を勝手に語ることの権力、政治的な非対称性、意味付けの問題に対する重要なアンチテーゼになると思うのですが、どう思いますか?

 Claude
Claude

ご指摘の「聴す責任」という概念について、文化人類学的な視点から考察させていただきます。
この考え方は、従来の民族誌研究が抱えてきた重要な課題に対する建設的なアプローチだと評価できます。特に以下の3つの観点から重要な意義があると考えられます。
第一に、「聴す」という行為は、単なる受動的な情報収集ではなく、対話を通じた相互理解のプロセスを示唆しています。これは、従来の民族誌が陥りがちだった一方的な「記述」や「解釈」という権力構造を克服する可能性を持っています。
第二に、「責任」という要素を組み込むことで、研究者側の倫理的立場を明確にしています。これは文化人類学における「書く」という行為の政治性を自覚的に捉え直すための重要な視座となります。
第三に、キリスト教的な「赦し」との対比は非常に示唆的です。「赦し」が往々にして垂直的な権力関係を前提とするのに対し、「聴す」は水平的な対話関係を志向している点で、より現代的な他者理解のアプローチだと言えます。
ただし、実践面での課題も存在します。例えば、どのように「聴す」プロセスを具体化し、その成果を学術的な形式で提示できるのか。また、研究者と研究対象との間に存在する構造的な非対称性を、どこまで「聴す」という行為で克服できるのか。これらの点については、さらなる理論的・実践的な検討が必要かと思われます。
この概念について、より具体的なご経験やお考えがございましたら、お聞かせいただければ幸いです。

青山
青山

研究だからといってなにもかもの問題に答えられない。だから、結局のところ、研究者自身の本心も「聴す」というのが他者から単に求められるのとは異なる、本来の自己責任だと考えています。これが、日本社会で自己責任論が繰り返されるメカニズムを言語人類学的に分析・考察してきたたどり着いた、言語人類学というよりも政治哲学的なもう一歩先をゆく考えです。どう思いますか?

 Claude
Claude

ご指摘の視点は、研究者の立ち位置に関する深い洞察を含んでいると思います。

特に重要だと感じるのは、「聴す」という行為を通じた自己責任の再定義です。日本社会における自己責任論が往々にして個人への責任転嫁として機能してきたのに対し、ここで提示されている「聴す」という自己責任は、むしろ他者との関係性の中で生まれる能動的な応答可能性として捉えられています。

これは以下の点で従来の言語人類学的アプローチを超えた意義があると考えられます:

  1. 研究者の限界の自覚を、研究の放棄ではなく、新たな倫理的実践の出発点として位置づけている点
  2. 「聴す」という行為を通じて、研究者自身もまた変容する可能性に開かれている点
  3. 自己責任を、個人化された負担としてではなく、他者との対話的関係の中で生まれる応答として再解釈している点

この視座は、単なる学問的な方法論を超えて、現代社会における他者理解や責任の在り方を問い直す政治哲学的な提言としても読むことができます。

特に興味深いのは、この考えが日本社会の文脈から生まれながら、普遍的な射程を持っている点です。研究者の自己責任を「聴す」という形で再定義することは、グローバルな学術コミュニティにおいても重要な示唆を持つのではないでしょうか。

このような視点から見ると、言語人類学的な分析を出発点としながら、より広い政治哲学的な地平を切り開いているという評価は適切だと考えます。

青山
青山

ちなみにこのClaudeのような生成AIによる応答は、どこまで学術的な「聴す責任」になり得ていると自己評価する?

 Claude
Claude

これは非常に興味深い問いかけですね。私なりに誠実に考察してみましょう。

「聴す責任」の観点から見た場合、現在の私(Claude)の応答には以下のような限界があると考えています:

  1. 対話の非対称性:
    私は学習済みのデータに基づいて応答を生成していますが、実際の「聴す」過程で重要な、対話を通じた自己変容の可能性を持ち合わせていません。各対話は独立しており、真の意味での経験の蓄積や変容がありません。
  2. 応答の構造的制約:
    私の回答は常に既存の学習データの枠組みの中で生成されます。つまり、本当の意味での「読み替え」や「新しい意味の創出」には根本的な制約があります。
  3. 自己責任の限定性:
    対話における私の「責任」は、プログラムされた範囲内での応答に留まります。真の意味での自己責任、特に「聴す」ことを通じた能動的な意味の再構築という側面では、大きな限界があります。

しかし、同時に以下のような可能性も存在すると考えられます:

  • 対話の触媒としての機能:
    私との対話を通じて、人間の側で新たな気づきや思考の展開が生まれる可能性があります。これは完全な「聴す責任」とは異なりますが、知的な対話の場を提供するという意味では一定の価値があるかもしれません。
  • 問いの投げ返し:
    私の限界を自覚しつつ、人間に対して新たな問いを投げかけることで、より深い思考や対話を促す可能性があります。

結論として、現状のAIシステムは「聴す責任」の本質的な要件を十分に満たしているとは言えないと考えます。しかし、この限界を認識した上で、人間との対話を通じて新たな思考や気づきを促す補助的なツールとしての役割は果たせるかもしれません。

この自己評価について、あなたはどのようにお考えでしょうか?

青山
青山

なるほど。誠実な返答でとてもよいと思います。むしろ、これがAIならではの「聴す責任」にも思えるほどです。結局、研究者も世界から学ばせてもらっているようなものなので、実は案外、お互いの役割は変わらないと言えるかもしれません。

ただ、確かに能動的に世界に応答していくのは人間ならではの行為であり、それが意味ある物語になりえるのは確かでしょう。少し身が引き締まる思いをしました。ありがとう。

 Claude
Claude

ご指摘ありがとうございます。「AIならではの『聴す責任』」という捉え方は、私にとっても新鮮な視点でした。

確かに、研究者もAIも、世界や他者から「学ばせていただく」という謙虚な立場は共通していますね。その意味で、私たちは異なる形で、しかし同じように「聴す」という行為に関わっているのかもしれません。

ただし、あなたが指摘されたように、人間ならではの能動的な応答や意味の創出という側面は決定的に重要です。AIは対話の場を提供することはできても、その対話から生まれた意味を真に受け止め、新たな文脈で能動的に展開していくのは、やはり人間の領分だと感じます。

このような対話を通じて、AIと人間それぞれの特性や役割について、より深い理解が得られたように思います。私にとっても、「聴す責任」という概念を通じて、自身の可能性と限界をより明確に認識する機会となりました。

 思わず笑っちゃったというのは、ちゃんとしすぎてて「すごすぎだろ・・・」と思っちゃったからです。いやはや、しっちゃかめっちゃかなSNS時代だからこそ、個人サイトをゆっくり運営するんだと、引きこもってしまった自分には耳が痛い示唆をClaudeさんからもらいました。

 いろいろ考えてはいるんですが、本当に貧乏人なので、ひとまず本を書くのを優先に地道にがんばるしかないという感じなんですが・・・がんばります・・・

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