イデオロギー論争の不毛さについて

 イデオロギーとは、価値観・信念体系に基づいた正当化に貢献するものと言われる。資本主義、社会主義、あるいはコロナイデオロギーといったように、社会的な影響をもたらすものが総じてイデオロギーと呼ばれてきた。

 このイデオロギー論で槍玉にあがるのが、イデオロギー論は自らのイデオロギーを度外視しているとか、あるいはなんでもかんでもイデオロギーにしてしまうとその意味自体が空虚なものになってしまう、といった議論だ。たとえば、経済的な制度、会社といった組織、あらゆるものが資本主義を前提とするイデオロギーとも言える。

 ただ、これらのタイプの論議自体が、ぼくには空虚に思える。なぜなら、まず、イデオロギーということば自体が、社会的・象徴的なものだからいくらでもその意味について抽象的に問うことができる。基本的にこうした論争自体が、イデオロギーの「定義」をめぐるメタ意味論的な問いかけになっており、簡単にいうと無限の解釈をしているばかりに見えてしまう。

 たとえるなら、眼前の人参を追いかける馬のような様相をイデオロギー論争は呈している。

 イデオロギー自体、さまざまな現象に波及、ないし宿る「効果・影響」を含むため、イデオロギーが半ば「なんでもあり」になるのは仕方がないことだ。他者・社会に影響を及ぼす「権力」を含み、その意味でイデオロギーは限りなくディスコース概念と近しい。

 だが、これも結局、イデオロギーやディスコース概念を含む抽象的な「語彙」をめぐった解釈ゲームに陥ってしまうと、遍在した現象を学者が取り扱うわりには細やかな議論対象なり、その調査・分析手法なり、論点が定まらず、空虚な議論になる。結局、メタ意味論的な無限の解釈になってしまうのだ。

 イデオロギーは、いわば「あるものはある」という具合に言及するのは全然問題なく、むしろしっかりそう言及した方がいいものは現代でも大いにあるとぼくは思っている。ただ、問題なのはなんでもかんでも権力批判で言った気になれてしまう、あるいはそれ自体の空虚さをただあげつらってしまう、一部の活動家・皮肉屋の思考不足にあることも否めないだろう。

 最近、アカデミックな記事ばかり書いているせいか、またまじめな雑記を書いてしまった・・・本当はおいしかったラーメン屋の記録でも付けようかと思ったのに・・・こうした、ふまじめな振りもまたイデオロギー・・・

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