政治とはなにか。この問いに鈴木寛さんは「優先順位をつけることだ」と答えた。先日、ZEN大学とゲンロンの共同講座「君たちはどう学ぶか──少子化・AI時代のユニバーサル教育(と政治参加)」(鈴木寛 × 乙武洋匡 × 東浩紀)で語られたものだ。
この鈴木寛さんの答えに対し、東浩紀さんは「哲学者や政治学者からは出てこない、実務家ならではの発想」というコメントをしたと思う。ぼくも少し虚を突かれる思いがした。人生は確かに有限だし、その有限のなかからなにかを選ぶことが「政治的」というのは的外れな発想にも思えなかった。むしろ、生活の実感に合うものだと思う。
最近、この「優先順位」の意味について考えていた。なにかを優先だとする判断には必ず偏りがある。その判断にはイデオロギーが投影されるから、確かに優先順位は政治的だ。
一方、共同体にとっての優先順位を決めるということには、そこに価値交渉も含まれる。その意味でも政治的だ。ここにはルソーの一般意志と民主主義の関係も含まれるだろう。
こうした政治の議論もあるが、ぼくは優先的だと思えたことが事後的に優先的ではなかったと気づいてしまうことについて考えてしまった(というのもいまがそうだから)。生きていると知らず知らずのうちになにかの状況に巻き込まれることがしばしばある。そのなかでどんなに精一杯考えて動いたとしても、変わってしまった状況に対応できなければ、成果がなければやはりそれは「失敗」だったと言うしかない。
「あのときはこうだった」では通じない。残酷だけどその現実を引き受けていくしかない。
もしかしたら「優先順位」を付けようとする仕切り直しの欲望は、こうした現実の引き受けをしづらくさせてしまうのかもしれない。「あのときはこうだった」、その判断にばかり焦点化してしまうとそのほかの要因に目がいかなくなる。優先順位は免罪符になってしまう。
選択肢が常にあると思うこと、それもまた幻想で、老いていくほどにその選択肢は限られていく。また、他人から見えるのは結果でしかない。優先順位をめぐるズレと結果に注視していきたい。