引用から身体化した思考へ、新しい思考を育むために

 会話で主張や議論を補足するとき、「誰々がこう言っていたのですが」「誰々が言った通り」といった枕詞を使う。これら枕詞の「誰々」に頻繁に出現する人がいる。そうすると、それをよく聞く人から「その誰々のファン」だとか言われる。

 ぼくはこうした謂れのない発言にうんざりすることが多い。理由を二つ挙げる。理由のひとつは、単に引用しているだけだから。論文で引用することは自分の思考と他者≒テキストの思考をわけるためでもある。引用することは単なる真似ではなく、その区別をするためのマーカーとしても機能する。よく引用するからといって必ずしも好きなわけでもない。引用は対象との距離をつくるための行為でもある。

 二つ目の理由は、引用する知識や思考をまだ自分に身体化できていないと感じているから。引用は人類学的に捉えると一種の憑依儀礼である。つまり、誰かの思考を自分であるかのように取り憑かせる行為だ。だからこそ、一つ目の理由で挙げた区別は、憑依に対する抵抗でもある。ここからも単なる真似ではないことを意識的に発しているのがぼくにとっての枕詞だ。

 にもかかわらず、それを単純な人間関係に置き換えられてしまうことがよくある。ぼくにとって重要なのは、自分の考えと誰かの知識の差異を意識的に保留しつつ、その過程で自分の考えとすり合わせ、自分の身体に刻んだ思考にすることだ。言い換えれば、習慣的な思考の枠組みへと変換することこそが学習の最終段階である。そこまで残った知識思考、つまり、かのように振る舞ってきた引用≒声は自分にとってはもはや本物かのようにみなせる。それが達成されたころには、引用はしなくなる。大事なのは学習の先に新しい知識思考を練り上げていくことである。そのために、引用しながら学び、考える。そのプロセスが面白いと思うのだけど。

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