「博論を書き出すと1分1秒が惜しくなるよ」

 指導教員からこのことばをもらったのは確か1年ほど前のことだ。「まぁそうだろうな」と思っていたが、案の定、そうなりつつある。ただ知識を羅列するだけなら簡単だ。20万字前後となる長文を読みやすく構成するにはえらく知的なひねりが必要となる。たたでさえひねりが必要なのに、ぼくが研究対象としている自己責任論も、中東地域日本人人質事件における国内の対立や批判も、中東地域の国際政治も入り乱れすぎるほどに乱れている。まとめるのも非常に厄介だが、それにアクロバティックな議論を交えようとするとさらに厄介だ。

 しかし、考えてみると世界とはネジレにネジれて成り立っているものだから、きっとこれが正攻法だと思いたい。そう思わせる中東情勢にも昨今、変化があった。2023年5月19日、アサド大統領下のシリアがアラブ連盟に復帰することが首脳会議にて決まった。アラブ連盟への加盟資格をシリアが停止されたのが2011年のシリア内戦を機にで、この内戦での死者は数十万人以上(国連は推計を中止)、難民は一千万人以上とも言われる。初めはアラブの春と呼ばれる民主化革命を発端とした内戦だったが、シリア政府軍、反政府軍(自由シリア軍)、IS(イスラム国)、米軍、国外の武装勢力が入り乱れる複雑なグローバル戦争と呼ばれるまでに至った。各々の勢力を支援する国家関係、各国に流れる難民(特にクルド人)の扱い、中東地域の宗教的対立、キリスト教社会とイスラム教社会の文明の衝突、利害と謀略が入り乱れてきた内戦であった。決着がついたとは言い難い状況が未だ続くなか、アサド大統領に一種の「お墨付き」を与えるのは果たして妥当なのだろうか。

 明らかに中東地域のこれら情勢には、20世紀から21世紀にかけての世界のあり方、かっこつけて言えば「平和」と「政治」の問題が煮詰まっている。9.11という大規模テロ事件、その後のイラク戦争からISの誕生、アラブの春の「失敗」、ISによるSNSを利活用したプロパガンダ、なによりも西洋社会が生み出した「国民国家」とは異なる「国家」との向き合い方が問われる中東の歴史文化。この問題は日本も対岸の火事ではない。

 ISもほぼ壊滅し、国際情勢の昨今の話題としてはウクライナとロシアとの戦争や、中国の台頭で持ちきりだが、中東地域で起きた政治的・哲学的な意味はあらためて問われる必要があるだろう。その足がかりとなる研究をたぶん自分はやっている。「自己責任」という「わたし」の話が、「世界」へとつながる回路をいかに誤配するか。いや、してしまうのか。足がかりとなることばを育みたい。

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