ぼく「ずっと自分を普通の人間だと思ってたんです」
先生「それは認知がゆがんでいるね」
先生と研究の相談をしている最中に言われた一言だった。ここでぼくは思わず笑ってしまう。どうやら自分はけっこーぶっ飛んでいるらしい。このことに薄々と気づき始めたのらここ2, 3年のことだった。というのも、大学受験は紆余曲折あれど失敗したし、記憶力や論理的な演算力などなど、特別に自分が優れてはいないと思ってきたからだ。ただ、それを自覚しつつ、目標を設定して、コツコツと自分がやれることをやり続けてきたら、いわゆる変人が多い研究者にも変人だと思われるぐらいには変な領域に来てしまったらしい。ある意味、変なまじめさが自分の売りなのかもしれない。
そんな変なまじめさを発揮することのひとつが、自分が考えたことと、他人が考えたことの峻別だ。これは実はおかしなことを言っている。というのも、厳密に自分と他者の考えを峻別することはできない。けれども、だ。なにか情報の要点をキーワードにまとめられるように、個有名を介して知的思考をショートカットできるが、逆にいえばその知識を編み出す経験的な過程は同じようには踏んでいない。厳密に考えれば、あらゆる知識の生成過程を同じように踏むことはできないが、その過程を軽視せず、自分が新しい知識をつくる努力をすることが大事だと思うのだ。特に研究をはじめとした知的な仕事に関わる人は。こうした姿勢が「自分で考えたことと、他人が考えたことの峻別」の意味するところだ。
けれども、研究生活なり、メディア活動なり、知的情報に関する編集の仕事に携わっていると、ときどき自分が考えていないことをあたかも自分が考えたかのように振る舞う人を目にする。繰り返すが、厳密には自分と他者の思考は分けきれない。だから、自分が考えたかのように振る舞うとはいっても、コミュニケーションが交わされる場で瞬発的に出てくる知識・思考もある。そもそも、あとで意識的にある程度制御できればいい。
とはいえだ、あたかも自分が考えたかのように、あるいは自分が依拠する知的ネットワークに同一化する、といった振る舞いが繰り返し見られるケースがある。ぼくはこういう振る舞いを観察したときに、そこそこ、いや、かなり警戒する。経験則でいうと、他者が積み重ねた経験・思考に自己同一化しているように見え、そこから外れる思考をバカにする人が多い。なぜなのか。いろいろ理由はあるだろうが、思うこととしては他人の命を吸って生きれてしまう人なのだろう。
詰まるところ、どこまで突き詰めて批判的に考え続けるか、という点に尽きる。ぼくはその点に関してはおそらく、くそまじめな人間らしい。それがぼくの普通の人だという自己認識に「認知がゆがんでいる」と先生に言わしめた背景にあるものなのだろう。とはいえ、具体的なコミュニケーションの現場で批判的な思考をいつでも・どこでもし続けられるわけもない。また、みながまっとうに批判できるわけでもない。その上で、最近思うのは、こうした批判の姿勢もひとつの才能なのだろうということだ。だとすれば、その才能を活かす仕事をきちんと積み重ねるべきだろう。最近はそういうことをよく考える。