「驚かれると思うんですけど、私、耳が聞こえないんです」。そう語ったのはApple Storeの男性スタッフ(Tさん)だった。ぼくが商品購入をする際、スタッフに声をかけて紹介されたのがTさんで、商品説明を受ける直前に投げかけられたのが冒頭のことばである。
正直言って、難聴の方とはとても思えない流暢な話し振りだったので、言われるまでまったく気づかなかったことに、確かにとても驚いた。だがそれ以上にぼくがショックを受けたのは、Tさんから受けた事前のあいさつや案内に「やけに丁寧だな。そこまで気を遣わなくても」と内心思っていたからだった。Appleといえど、過剰な丁寧さを感じたのだが、「耳が聞こえない」というカミングアウトを受けた瞬間、障がいを抱えながらApple流の顧客対応を身につけた日々への想像が咄嗟に及んだ。
その恥ずかしさを覆い隠すように、「えっ、とても耳が聞こえないようには見えないんですけど」と驚いたような笑みを浮かべて親しげに反応したのだが、正直、ぼくの表面的な反応と反面の内心はゲスかったと思う。恥ずかしさを覚えつつ、なぜこんなにも丁寧な説明だったのか、話を振られるまで違和感がなかったのかと、気づけば観察と思考のスイッチが入っていた。
私見では、どの国のApple Storeスタッフもフランクで積極的なアメリカ流のコミュニケーションを実にうまく身につけている。アメリカ流の雑談には、公共の場にて見ず知らずの人でも冗談を交えながら、一時的な連帯を紡ぐという特徴がある。スモールトークと呼ばれるこの雑談スタイルは、多様な人種や差別の歴史を持つアメリカ社会において、擬似的な平等を作り出す暗黙理の規範意識によって支えられている。筆者にとってTさんとの出会いは、隠れて引き継ぐ文化規範を印象的に感じ取る経験であった。
ヒト・モノ・コトの流動性が高まったグローバルな情報社会。その象徴を担うAppleで出会したのは歴史的に積み重ねられた「文化」の残滓であった。何気ない日常のことば遣いや振る舞いからそれらが紡いだ特有の歴史が読み解ける。見え隠れする文化、またその交叉は個人から社会にどう影響をもたらしているのだろうか。
実はもう一人、同店内には呂律が回らないスタッフがいた。ぼくが見た限り、Tさんはスタッフ同士で手話のやりとりをするなど打ち解けているのに対し、もう一人の方にはそのようなやりとりは見うけられなかったのが気に掛かった。
接客終わりに「またTをいじりに来てください」ということばをいただいた。Tさんとの再会を心待ちにしながら、ぼくの裏表の反応に隠れた無意識、そして日本における「いじり」の実態や文化規範について、アンテナを張って観察している。