「あそび」とは何だろう。
幼稚園の砂場の「あそび」。
カードゲームの勝ち負けに躍起になった「あそび」。
グラウンドでボールを転がしながらかけずり回った「あそび」。
他にも、賭け事や夜遊びまで、実にさまざまなあそびがある。
ぼくはこの「あそび」こそが、自分の人生において最も重要なテーマであると長らく思い込んできた。だけれど、どうしてもそれをうまく「仕事」に消化しきれないまま30代を迎えてしまった。そんな気がする。
最近、そのもどかしさの片鱗が少しわかってきたのでことばにしたいと思い、今回は筆を取ってみた。だけれども、この「ことばにする」こと自体がもしかしたらそのもどかしさの原因なんじゃないかとふと気づいてしまった。
どういうことか。
まず、ぼくはことばと社会文化の関係を分析する研究に取り組んできた人間だ。学問の世界で長らく過ごす中で、ともすれば「正しさ」に囚われがちになることもしばしばあった。
時は遡ること2020年。2010年代後半に巻き起こっていったポストトゥルースだうんぬんで一向によくなる気配を感じさせない世界情勢は言わずもがな、大学生活で溜まっていたフラストレーションにも嫌気が指すことも多かったお年頃だった。
そんな中、企画・執筆していたのが共著者となった『ディスコース研究のはじめかた 問いの見つけ方から論文執筆まで』(2025年、ひつじ書房)という本だった。ぼくはその企画ブレストの際に執筆メンバーから出てきた「問いの種を蒔いて咲かせる」というフレーズにやや抵抗感を示してしまったことがあった。
その場でぼく以外のメンバーが朗らかに交わしていた会話は、ゼミで「問い」を育むことへの雑談だったのだが、いわばそのような「内輪ノリ」をメッセージに据えるのではなく、ちゃんとした「価値」を研究者として示す責任があるのではないか、とぼくは言い募った気がする。
今でも、基本的にはどう価値を生み出せるかを大事にしてことばを編む仕事をしているつもりだから、考えが大きく変わったかといえばそういうわけでもない。ただ、当時のぼくは「余裕」がなかったのだろうと思う。
しかし博士号を取得し、最近は少し研究から距離を置く環境に身を置いている。そこであらためて、ぼくの考えの中心にあるのは「あそび」の大切さだ。
それは機械の歯車と歯車の間に必要な隙間のようなもので、余白なくぴったりはまった歯車は動かない。「あそび」があるからこそ、歯車は動く。個人も、組織も、世界もたぶんそんなもんだ。
もちろん、思考にも「あそび」が必要だ。それらしき「正しさ」を語るのでもなく、余白こそが凝り固まった習慣や考えをもう一度自由にする。
ある日、こんなつぶやきを目にした。「言語化すると、本来は不可分なものをデジタル化することで、その不可分性を残したまま思考することの方がよっぽど重要だったりする」(参考1)、だから「言語化が上手いって、情報を切り捨てるのが上手いこと」(参考2)というもの。
少しわかりにくいが、これはことばのとある本質的な性質をつく指摘である。
思い切ってまとめると、ことばというものは、本来アナログで連続的な世界(声)をデジタルで離散的なもの(文字)に変換する「技術」によって成り立つものだ。つまり、ことばは現実をそのままには映さない。どうしても、ことばは断片的で、いわば「嘘」が含まれてしまう。
ところで、ぼくが専門としてきた言語人類学という学問では、ことばを徹底的に「記述」する。会話の間、呼吸、目線や声色といったトーンから文字によって交わされる、あらゆるコミュニケーションを記述する。
かつてのぼくは、一生懸命に社会のことばを読み解きながら自分の思考をもあるがままに「記述」しようと努めていた。だけれど、それは「かつてあった」コミュニケーションを残す行為で、「これから生まれる」コミュニケーションを促そうとするものでは必ずしもない。
クリエイティブにことばを紡ぐ、つまり、(きっとことばだからこそ可能な)世界を股にかけた編集をするためには、「記述」ではなく、「技術」が必要だ。「理解してもらう」ためではなく、「想像してもらう」ための技術が必要なのだ。
こうしたことばの編集には、連続と離散の間の「あそび」が重要になる。すべてを言語化しきらない余白。それが新たな問いを育む土壌となり、異なる人々との出会いの場をつくっていく。
「問いの種を蒔く」という表現は、今のぼくにとってはとても意味のあるメッセージとして響く。
研究も、思考も、創造も、必要なのは「問いのあそび」だ。凝り固まった頭と体を和らげるためにも、きっとこれ以上のことばは慎まなければならない。