個々人や集団・組織の特徴を抽出し、それを単純な記号的カテゴリーとして理解する。そして時に、その抽出された特徴的傾向を問題視して批判する。基本的に、僕はこうした単純化された議論は好まない。なぜなら、その単純化されたものは、その場に至った文脈や個々人の感情・行為の微細な部分を捨象して成り立つものだからだ。もし、そうしたカテゴライズを日常的に慣習化して行ってばかりいると、記号化した世界に埋没してしまいかねない。次第に現実や世界そのものとのギャップが開いていく。つまり、世界は狭まり、関係も次第に閉ざされていく。そのような状態に陥ってしまう姿勢を素朴に肯定はできない。
けれども。けれどもだ。やはり、よくよく観察してみると、ある微細な感情や振る舞いの連鎖や集積がパターン化して現れていることを発見する。大概、このようなパターンはうまく言語化されていないことが多い。言うなれば、気づきにくい無意識だ。そうした無意識は放っておくと、パターン化した考えや振る舞いをしていることを見過ごしてしまう。それはそれで、世界を閉ざしているように見える時がある。
このようなカテゴライズ化に至る行為やその連鎖的な過程で生じる無意識のパターン化、この両者に僕はうまいこと抗いたいと願ってきた。といっても、それを自覚したり、実際に遂行するには、繊細な思考と感情を要する。時に、その繊細さへの強迫観念もまた、パターン化され、カテゴライズ化されていく。生きるというのは、なんとも難しい。
けれども、この難しさを引き受けることは、なんだかんだ言って大事だと思ってきた。言うなれば、人の性格や行為に宿る「弱さ」を認識する「勇気」を持つこと、それが大事じゃないとはあまり言いたくない。まだうまくことばに仕切れていないが、それは「人間」の条件の一つのようなものとさえ思える。
このような言明は極めて優等生的なものかもしれない。最近、やっぱりある特定のジャンルに表出する傾向のようなものがあると思うことがあった。それも、ざっくりとした傾向として「自意識過剰」に陥るメカニズムがなんらかにはたらいているのではと。僕は、できることなら「自由」に生きたいと思うし、「勇気」を持って、「人間」でありたいと思う。だからこそ、それを妨げるメカニズムがはたいているのだとしたら、あえてそれを「カテゴライズ化」し、問題提起するのもまた重要なことだと思う。
とはいえ、その問題提起そのものはそう正当化して判断するとしても、それを提示する語り口の問題はさらにまた難しい。この雑記のようにボカしても効果はないだろうし、ハッキリ言いすぎても余計な反感を抱かれることもある。とはいえ、どこかでその難しい文脈の「間」をかいくぐって、ことばにしていかなくてはならない局面もあることだろう。僕はいつもそんなことを考えながら、ついついその難しさを楽しんでしまってもいる。それはそれで良くない気もするのだが。