積み重ね続ける意志

 自分でもびっくりするくらい、SNSになにかを投稿する気が起きない。というか、最近は「Twitter」も「Facebook」も一度滅びればいいのにと思うくらいだ。

 個人的なものから社会的なものまでそう思う理由はさまざまだが、SNSへの投稿する手は止まりつつも、「作り続ける」ことに対しては関心を持ち続けている。個人的な問題であれ、社会的な問題であれ、時に何か「動く」ことをためらってしまうような時がある。それは失敗した時もそうだが、ある意味で「自由」であり過ぎるのにも作ることを辞める、怠惰にさせてしまう。

 たとえば、社会主義が失敗した理由の一つとして「競争」をすることがなくなってしまったからというものがある。人々は国家により生存を保証されており、それ故に「計画経済」のもとで労働に従事するという、「平等」な社会が一つの理想として目指されていた。しかし、そんな理想郷は実現せず、後期資本主義と呼ばれる現代社会に至っている。(もちろん、そうではない国もある。)

 今、日本では政治不信に溢れるような状況で、失われた30年とかそういった話ではなく、そもそも総体としての「社会」は発展できていなかったんじゃないかという暗澹たる気持ちが湧いてくる。さらに、日常茶飯事にSNS上で誰かを仮想敵としておちょくり、バカにするような言説が永遠と垂れ流され続けている。ローカルな現場を見てみても、既存の歴史的背景を引きづりつつ、世代の切れ間でもがき苦しみながらなんとか正気を保とうと生きている人を目にする。

 翻って、自分自身が主に所属する「大学」という空間も一向に改善に至る道筋が見えないままだ。なんとかできないだろうかと、比較的に自由に動ける学部生時代に行動してみたが、いかんせん自分の力も足りず、特に何かできた気もしない。そうこうするうちに、院生になってしまい、今は自分の研究やこれからの生き方を繋ぐことに精一杯の日々だ。

 複層的にさまざまな要因が積み重なって暗澹たる思いが胸を離れない。けれど、虎視眈々と「何ができるか」については頭の片隅には常にあり、アンテナが張られている。基本的に今すぐに解決できないことはすぐに諦めて思考停止するのではなく、ステップを踏んで準備をすることが大切だ。

 兎にも角にも、人が生きる上では環境も含めた「良い循環」を考えることは避けられない。それは単に「経済」的にという意味だけじゃなく、人の「幸福」だとか「納得」のために必要なことだ。僕はあまり「幸福」という言葉は積極的に使う気になれないが。

 本当に今は良くない状況が前景化してしまったし、またそれに至るまでの要因を無視し続けてきたことが露呈したし、危機感を持った者もいれば、「それでもいいや」とか、そもそも気づいてないだとか、そういった状況だ。

 本当にとりとめもなく、構成なんかもそっちのけでむちゃくちゃなままに書いてしまった。自分はそれでも、拡散するネット世界の中に、きちんと残る物や意志を持って作り続けることの意義を探求していきたいと思う。

Recent Updates
2024.11.16
「いいなー。自分の地元にはなにもないよ」。友人と故郷に関する雑談を交わした際、ぼくがふとこぼした一言だった。ぼくの出身は千葉県茂原市で、千葉県のちょうど中央に位置する。地方拠点都市に指定され、付近の[…]

- - -