タイトルまんまなのだけど、昔からなにかものを整えるのが好きで、自分自身のフェチとして整った形にならないと気合いが入らないということがよくある。ある意味では、順序立ててものを進めるのだけど、ある意味では順序立てられないものが生まれたときに回復するのに時間がかかる。
ものを書くというのはこれまでの思考を整理するのに頭を使うし、それを単になにか目的を持って、つまり「読者のことを意識しながらものを書く」というのはとてもめんどうだし疲れてしまう。こうして文章を書いているとなにかそれを読む「読者」といった”カオ”や”メ”を思い浮かべざるを得ないのは正直、ときに窮屈だ。「ブログ」という媒体も、誰に読まれるとも知らずに書くこともできる媒体ではあるものの、もはや「読者を想定しない」ということがとても難しい。
はじめてこのブログを始めたのも「はてなブログ」という媒体だった。そこでも「はてな民」と呼ばれるようなゆるやかなネット上の共同体がおり、Web上のあらゆるリンクが対象になる「はてなブックマーク」という機能では、ブックマークという行為もソーシャルな意味を持つ。
書きながらふと思ったが、「つながってないものなどない」という感覚と「個人の自己決定が重視される」ことの関係性は社会的状況なしには語りえない。だから、やはり「自己責任」という考えには「自己」というよりもむしろ「社会」や「世間」、もっと言うなら「他者」といったものの関係性を実は浮き彫り立たせる。
タイトルに書いたことを今回は吐き出そうと思ったのに、気づいたら「自己責任」について言及してしまったが、こういう「よくわからないもの」、「偶然性」といったものが今のデジタル時代には消え去ってきている、というよりもありすぎて「逆にその中で勝ち上がる」ことが重視されてきているのはとても興味深い。もちろん、単に「デジタル=競争」というのはあまりにも単純な図式ではあるのだが。
とにもかくにも、「やる」と決めたら踏ん切ってやらないと身体が思うようについていかない感覚はなんなのかはよく考えておきたい。