木田元『反哲学入門』という本を読み始めた。どうやら木田さんに編集者のかたがインタビューした内容を原稿にまとめたものらしい。晩年のインタビューもあってか、著者の語り口はわかりやすく、かつ踏み込んだ議論が書かれていて興味深い。特に、1章で言及される後期の丸山眞男が「つくる」「うむ」「なる」の基本動詞に人間が物事を思考するパターンが集約されると指摘した話と、古代ギリシア語における「自然」の語源的な意味に遡る議論は、昨今の関心に思わぬ側面から出くわす記述だった。
後者の「自然」への関心はというと、自然ということばには人間による人為的な行為・影響をも含まれる点をどう整理するかということにある。昨今というか、2010年代くらいからの流行とも言える存在論的転回など、これら流派の論点はあらゆるものを「自然」に還元する傾向にあるとまとめられるだろう。重要だと思われるのは、こうした研究潮流が言語や表象、あるいは権力といった20世紀の人文学で問題視された論点を回避するようにして「新しさ」を身に纏って出てきた点だ。つまり、どうしても流行の一種に思えてしまう。
たとえば、言語や翻訳に関する論点で的をいた議論をきちんと見かけていない。簡単に言ってしまうと、「自然」に還元する議論は文化的な「蓄積」や規則的な「型」を発見する観点が希薄だと感じる。ぼくの自己責任研究では、まさにその文化的につくられてきた慣習・儀礼といった観点を抜きにはできないことを論じている。なので、新しい「自然」中心の議論には、言語・コミュニケーションに関わるそれら論点の希薄さが余計に気にかかるのだ。
もちろん、自然環境などに関し、素朴な人間中心主義的な考え方だけでは対処できない問題も大いにある。それらを度外視して自らの立ち位置を単に肯定したいわけではない。ただ、だとすれば、どう「自然」なるものを考えるのかはやはりもう少し自分なりのことばを言語化しておきたいと思っていたわけだ。
というわけで、出くわすと思っていなかったその手掛かりが木田元『反哲学入門』で見つかって驚いた(もともとキリスト教と個人の関係についてに調べて読み始めた)。また、もうひとつの発見である丸山眞男に関しても読めたのがラッキーだった。丸山によると、朱子学は日本の「なる」パターンらしく、国学の祖である本居宣長の神話分析を通して、日本は「なる」思想に支配されがちであると指摘しているらしい。実は、こうした「なる」の発想は日本語では「結婚することになりました」が英語では「We are getting married」と表現されるように、日本語では「なる」、英語では「する」の動詞で表現する傾向があることが指摘されている(それに対する批判もあるが割愛)。
「なされるままになる」。こういったどこか自然的な運命に委ねる思想は、確かに日本的なものに思えなくもない。ただ、ぼくの自己責任研究では、この一種の世界・人生に対する姿勢がどうつくられるかという点を自己意識と責任観の関係に着目し、単に解釈だけでは済ませにくい論点が忍び込んでいることを論じている。それはまたおいおい。ではでは。