人文学的な固有性と自己責任の訂正可能性

 先日、「一貫性・体系性・原理性のどれか、できるなら全部をどれだけ考え尽くしているかが大事」というつぶやきをした。けれど、『訂正可能性の哲学』を読みつつ、また自分の博論で「自己責任」について考えるなかで、少し違った考えが出てきた。

 このつぶやきの背景には「学問の自由は保身のための道具なのか」を書くきっかけとなった同じ出来事があり、その議論を思い出しながら深夜テンションで書いたものだった。「少し強い言い方だったな」と思いつつ、ある意味で自分の本音のようなものが出たつぶやきで、一方で「実際のところどうなんだろう」とぼんやりと考えていた。つぶやきの背景には自分が依拠してきた言語人類学の議論があった。

 まず、科学と人文学の違いについて整理する。科学は規則性から導かれる体系性を重視する。一方、人文学は一回性から導かれる固有性を重視する。あるいは、実学と虚学の分類でいえば、科学は実学より、人文学は虚学よりだ。

 この違いを踏まえると、ぼくが主に依拠してきた言語人類学という学問は、科学的な体系性と人文学的な固有性の両方を大事にする、と言われている。言い換えれば、規則的な自然と固有な文化を包括する。なぜなら、「言語記号」こそが規則性と固有性の両者が交叉する領域だからだ。ぼくの「一貫性・体系性・原理性」うんぬんというつぶやきはこの言語人類学的な発想から出てきた。

 けれども、冷静に考えるとこれはぼくが批判しようとしている言語人類学的なイデオロギーがわかりやすく出てはいないか。そう我に返った。

 言語人類学では、パース記号論の発想が色濃く、その原理は連続性である。けれども、その連続性の発想はあらゆる記号的な現象を宇宙論的に飲み込む。その意味で、全体論的で体系化志向が強い。だが、連続性の重視は離散性を背景化している。ある意味で他者が消えやすい。そうではない、という言い方もできるが言語人類学では傾向としてはそうなってしまう。

 ここでいう他者を「驚き」のある出会いと言い換えれば、離散性はバラバラな記号と記号の思いがけない交叉を重視する発想だ。連続的なものは量化しやすい。たとえば、数直線で数値と数値を表すことが量化だ。けれど、離散的なものは質と質の出会いであって、量化できない。だから、人文学的な発想はおそらく離散的なものが大事だ。

 ぼくの理解では、『訂正可能性の哲学』はこの離散性の発想を原理的に突き詰めた上で出てきている議論だ。あらゆる出来事・記号は遡行的な訂正可能性によって開かれており、その遡行的な出会い直しがなければ誤配は生じない。大雑把にまとめれば、この発想が訂正可能性の哲学のテーゼだと思う。その意味で、訂正可能性の哲学に体系性と一貫性ということばは適さない。

 言語人類学にはいいところもあるが、よくないところもある、だがそれを乗り越える議論を『訂正可能性の哲学』を著した東浩紀さんの議論から見出そうとしてきた。ある意味で、ぼくは両方のいいとこ取りをしようとしたところがあった(それなりにちゃんと関連性・必然性はあるはずなのだけど!)。だが、これはなにか違うなという感覚が芽生えてきた。おそらく、そのいいとこ取りをしようという姿勢自体が結局のところ、広義の人類学っぽい気がしてきたのだ。

 だとすれば、なぜぼくは乗り越えようとしたものに再び取り憑いてしまっているのだろうか。ある意味で、あーでもないこーでもないと考える「このぼく」と向き合うことが人文学的な問いの根っこにあるべき、というかある、ということをまざまざと感じる。ぼくはまだぼくのことばで語れていない。ようやく人文学みならいの感覚になった気がする。

 よく考えると、それぞれの固有の読みを見出すこと、それが人文学者や批評家と呼ばれる人たちが紡いできた歴史だったのではないか。このことも知っていた・わかっていたつもりだったが、実践できていなかった。そんな気がする。

 話が少し飛ぶが、おそらくこの問題は「自己責任」の訂正可能性と結びついている。結局のところ、「このわたし」も、「キャラ」もみなフィクションだ。「本当のわたし」なるものはない。だとすれば、人はなにをもって「自己責任」をとることができたといえるのか。自己責任は危機的出来事が起こる前のリスク管理として求められてきた。だが、おそらくそれはあまり本質的ではない。なぜなら、本当の自己責任が求められるのはその危機が起きてからだからだ。自己責任は事後的に求められるときに問われる。だとすれば、事後的な出来事をいかに辻褄合わせできるか、それこそが「自己責任をとる」ことの本質ではないか。本質とまで言わなくとも、少なくともその発想と対応は避けられない。

 いくつかの理由で自己責任は厄介だが、もはや自己責任をとる主体がいない(亡くなるとか)なかで叫ばれる自己責任論は特に厄介で、必ずしも上の辻褄合わせという話に単純にはならない。だからこそ、自己責任は社会の問題につながる。

 けれど、ひとまず生きている人に関わる自己責任に限定していえば、辻褄合わせの能力として自己責任を捉えるとわかりやすい。言い換えれば、けじめをつけるコミュニケーション能力(言語人類学ではコミュニカティブ・コンピテンスという)が自己責任だ。だとすれば、これから社会的な制度とか出来事とかとどう折り合いをぼくはつけていけるか。博論を書きながらの現在進行形でその訂正可能性を探っている。

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